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D Lab+科学×アート=オルタナティブな未来
火星における人類社会プロジェクト

10 【エッセイ】宇宙と神話

執筆者:愼 允翼(未来社会創成研究院 DLab+ 研究員)

宇宙神話の人間性

 子どもは父親にこう尋ねている。「わたしのお父さんのお父さんが、おじいちゃん。そのお父さんはどこの誰なの?」。本当は先祖のことなどほとんど知らないのだが、父親はひとまず答えた。「○○県で農家をやっていたみたいだよ、いまは死んじゃったからお星さまになって、お前のことを見守ってくれているんだ」。子どもが納得の表情を浮かべてくれてほっと一息も束の間、父親は直ちに詰められる。「じゃあ、そのお父さんの星もあるね?いつから人間やお星さまはあるの?いちばんはじめには何があるの?」。父親は青ざめる。子どもは答えを楽しみにほほ笑む。

こうした光景は太古から現代まで、時空を超えてどこでも見たり聞かれたりする。それは個人レベルの体験にとどまらず、もしや人類レベルの「神話」と言えるかもしれない。そして子どもたちからの絶え間ない質問は、大人にとっては付き合いきれないところがあるにせよ、自分を守り育てる人々への信頼と結びついている。それは子どもなりのやり方で、言語の空間に侵入を試みる最初の一歩かもしれない。

ヤスパースは、子どもの「起源」に対する問いかけが、「完結した答えというものはけっして可能でないということ」[1]の経験だとして、そこに哲学の初歩を指摘する。そして、子どもが哲学の初歩を踏み出すとき「神話」は必要となる。神話は哲学の初歩より、さらに一歩手前というべきだろうか。少なくとも、「起源」への問いを幼稚だとみなす態度は、未来を担う次世代との素朴で楽しい会話を遮断する。

コイレの主張[2]を踏まえれば、近代科学の精密化によって人間は均質で無限の宇宙観を獲得するに至り、宇宙のはじまりに関する説明を回避するようになった。つまり、かつての神話的な宇宙観は、はじまりについて説明する物語を含むことで、無限の系列を「閉じて」いたということだ。だが、20世紀以降のビッグバン理論や大統一理論のように「起源」を再び科学的に問う流れもある。すなわち科学は理論的に起源を探求し、神話は物語として起源を語る。両者は方法を異にしても、同じ欲望を映し出すのかもしれない。

ここで問題なのは説明ではなく、無限に開いた宇宙と有限な人間の経験をつなぐ語りと言ってもよいだろう。「宇宙」が無限で虚無のように見えればこそ、わたしたちは「神話」という物語によって、生きる世界に意味を与えたいのだ。

本セクションでは、まず宗教学・神話学の見地を踏まえて、宇宙の起源を「閉じる」物語の類型についていくつか紹介する。そのうえで、物語の虚構性が前景化する近現代の文学においては、SFが神話の役割を継承している可能性を指摘する。すなわち、SFが「起源」を「閉じる」代わりに作中の設定として組み込む諸相に注目する。そうして、「宇宙人類の未来像」を物語において提示するための手がかりを得たい。

宇宙神話の諸類型

したがって、「宇宙と神話」と題された本セクションは途方もなく大きなテーマを抱え込むことになる。それに際して、取り扱う主題の範囲を限定することにしよう。以下で扱うのは神話が中心であり、諸宗教の教説とのかかわりは不可避になる。だが、あくまでそれらの「起源」に関する言説のみに注目し、教義の体系などについては扱わない。また、天文学史や宇宙理論史でもない以上、以下の神話類型においては占星術や星座の物語にも言及しない。はじまりをいかに「閉じる」のかという創世神話にのみ注目し、いくつかの神話から語り方の代表例を挙げるものとする。なお、これ以降用いる類型化は、池内了の著書『宇宙論と神』(集英社、2014年)の第二章「神ならざる神――神話の世界」に負っている。

A「無からの創造」

創造神の意志や言葉によって、混沌の世界に光がもたらされ、次いで天地、星々、生物、人間へと秩序ある世界が構成されるという語り方である。これは『旧約聖書』に特徴的な形式で、絶対的な一神教の精神を読むことができる。神による起源の一撃は決定的だ。しかし、その力の源泉あるいはメカニズムを人間が直接に知ることは不可能である。それでも人間は、神話的な語りを通じて、つまりロゴス(言葉、理性)を通じて、そこで何が起こったかという事象の説明をひとまず受け入れることができる。根源的に人間は世界を前にして受動的であるが、そのなかで能動的に理解し、議論し、判断することができる。すでに起きてしまった事象にどう対応するか。「起源」よりもその後の歴史的な展開が重視されているのである。

B「神々の戦い」

光の善神が闇の悪神と対決しながら、天界と星々、大地と草花、最後に火を生み出すという語り方である。これはペルシャ神話が代表的である。ギリシャ神話においてもまた、神々が人間に似た情念を持って争うことで、世界は秩序を徐々に獲得していく。宇宙の「起源」も、人間社会の「起源」も、カオスからの脱出として理解することができるだろう。ただし、もしも「戦い」に終わりが見えないとしたら、世界の堕落や崩壊の余地は残されている。世界の果ては、決してあらかじめ決まっていない。その開かれた余地が、後のSF的想像力に接続していくといえないだろうか。

C「世界両親」

人間的な情念と戦いのあるところに、男女の交わりもまた見出される。大地の女神と天空の男神のセックスによって子どもの神々が生まれ、協業のうちに争いも始まっていく。この擬人的な世界の胎動という意味では、ギリシャ神話のみならず、エジプト神話や日本の記紀神話もまた、Bと似た要素を併せ持つといえるかもしれない。特に、イザナミとイザナギの身体の結合をめぐる露わな性描写は、子どもの誕生を世界の起源とみなし、人間界における再生産や模倣を象徴的に表現する。 

D「死体化生」

原始の超生物(巨人の場合が多い)の死体から、人間が生きるこの世界の構成物がすべて流れ出たという語り方。中国神話やインド神話にみられる。中国神話では洪水現象の形象として、復活を挟んだ生と死の循環があり、古代の農耕社会のリズムを表しているといわれる。またインド神話では、死体の各器官から身分秩序も流出しており、マクロコスモス(外宇宙)とミクロコスモス(内宇宙)の対応を階級社会とも接続させようとする政治的意図が見え隠れする。つまり、社会的な秩序を自然的ないし宇宙的な秩序としてシームレスに接続して正当化する作用がある。

E「宇宙卵」

卵から様々な生命が生まれていくという観察的な事実をアナロジーとして、宇宙の誕生と重ねる語り方。古朝鮮神話には天帝の子と河神の娘とが結ばれることで、人間である娘が動物の卵を身ごもり、そこから伝説的な指導者が生まれたとする英雄神話との接続がみられる[3]。種を超えた生命としての接触、異端な出自を持つ英雄の活躍は、「天地開闢」神話から一歩踏み出していく過程と思われる。

宇宙神話の学説史

ここまで、「起源」をめぐる問いへの応答について、物語の形式から5類型ほど挙げてみた。ただし、これらの配置を行う前提になっている「神話」という言葉、あるいは神話を学問的に解読する手法としての「神話学」は、いまなお統一的な見解を確保していない。それでも、「①神話は物語である」、「②集団や社会によって真実を語るものとして受容」される、「③作者不明、とくに口承文学の形式をとりやすい」、「④成立年代が不明」という点は共通見解としてよい[4]。

大切なのは、「神話(学)」が謎に開かれながら、実際に人々の心をつなぐ物語として存在していることだ。それは、宇宙および未来という暗闇の中に、存在を与えられている人間にふさわしい手段と言えるかもしれない。

いずれにせよ、「神話学」は既存の宗教(史)学と結びつきながら、現在進行形で生まれつつある。とりわけ、本セクションで取り上げたいのはエリアーデとキャンベルである。彼らはまず、無文字社会も歴史社会も問わず、起源神話や英雄神話を中心に据える。「宗教」以前ではなく、「宗教」に代わるものとしての「神話」を重視するためだ。エリアーデは神話と儀礼の結びつきに「起源」の再現を読もうとする。その一方、キャンベルはあらゆる神話に共通した「英雄譚」の構造があるとし、そこから実際に人生のヒントや希望を得ることができるとする[5]。

二人とも、この世界に人類が知的生命として生まれ、物語を通じて社会を形成していることの積極的な意味を問う。つまり、宇宙が無限に拡張した今こそ、神話を特異な物語に翻訳しなおそうとする。「天地開闢」の神話は、宇宙時代に未来を生きるわたしたちが存在の意味を探求する物語となって、これからも新しい世界を構想する祖型となる。

宇宙神話の現在地

人間は「宗教」や「宇宙」に対する眼差しの在り方を変容させながら、新しい「神話」を模索し続けている。いくつかのSF作品は新しい神話として、わたしたちが「宇宙神話の未来像」を描く鍵を与える。現状の到達点を三つに類型化しよう。

A「見慣れた世界からの旅立ち」

「起源」には、神の言葉であれ、神々の戦いであれ、男女の交わりであれ、死体や卵の循環であれ、生命ないし存在を生み出す力が想定されてきた。その力の象徴は、太陽の燃え盛る火や月の包み込む光に託されてきた。安全な地球を離れ、そうした力の根源に旅立とうとするとき、真っ先に問題となるのは上昇・下降のエンジンをどのように働かせるかである。そして、その移動中に人間を安全な環境で囲いこむ空間を設計することが重要になる。かくして、シラノ・ド・ベルジュラックを皮切りに、ジュール・ヴェルヌによって飛躍したSFが、新たな「宇宙神話」として登場する。H・G・ウェルズの『タイム・マシン』もまた、時間という「起源」への旅路を描きながら、人類の未来像に警鐘を鳴らした。エロイとモーロックに分化した人類の姿は、階級社会の行き着く先として、「起源」への問いを社会批判と結びつける。「起源」への問いは、宇宙進出が技術的な射程圏内に入ったとき、再び蘇る。「科学上の革新とは、無知や古くさくなった見解を切断し放棄することであるが、その問題の前史において件の対象に関連していた一切のものの再生でもあるのだ」[6]。

B「文明のリスタート」

隕石の衝突、異星人とのコンタクト、人間同士の最終戦争、夢の科学技術(無限動力や再生技術など)の暴走等により、現代の人間社会はすべて滅び去った。ポスト・アポカリプスの時代を舞台に、人間の生存と欲望を描く。ブラッドベリ『火星年代記』では、地球文明の破綻を想定して火星に旅立った人々が、新たな火星の住人として生きていく姿が描かれる。つまり、文明の終焉は同時に新たな「起源」となる。そして、再出発後の共同体は一時的にせよ小集団の穏やかな暮らしとして描かれ、そこに残る童話や口承が「起源」の秘密を暗示する。

C「星屑としての人間」

 エネルギーを消尽させた恒星は、重力による矮小化あるいは超新星爆発を経て宇宙空間を漂う。宇宙空間へと散っていくもの、ブラックホールを形成し他の星を巻き込んでいくもの、その引力で新たな星を構成していくものなど、様々なサイクルを辿っていく。星々はまた互いに引かれてはぶつかる。そのごく一部が流れる星屑となり、地球の大気圏に飛来する。宇宙の神秘的で偶然的な滞留と運動の繰り返しは、ついに人間が視認可能な領域に現れる。人間はその輝きに魅せられ、想像力を掻き立てられる。宇宙の循環や星々の衝突というイメージは、人間関係が絶えず結び直されていく社会的な過程の比喩として読まれる。この世界の「起源」に対する問いは、いまや希望に突き動かされた若者たちが様々な想いをぶつけ合いつつ、無限の未来へ生きていくドラマに結実するのである。

 こうしたSF作品が「新しい神話」として機能していることは、具体的な作品分析からも明らかだ。『Dr. STONE』では、宇宙飛行士たちの「百物語」が村に語り継がれ、科学文明再生の指針となる。これは古代神話が「起源」を語り継ぐ機能そのものである。『仮面ライダーフォーゼ』でも、星座のモチーフが学園の人間関係にある種の宇宙的な意味づけを与えている。前者はSFの類型B「文明のリスタート」として、起源神話の類型B「神々の戦い」を科学と混沌の対立という仕方で現代的な文脈に置き換える。後者はSFの類型C「星屑としての人間」として、起源神話の類型C「世界両親」を個人の絆が宇宙的調和を生むという仕方で学園ドラマに翻案したとも言えよう。石化で無力化された人類、学園で孤立する生徒たち、そのどちらも「他者の手を必要とする」状況から出発し、協力によって新しい世界を築く物語になっている。アニメや特撮は、文字を読めない子どもや読書に困難のある人にもアクセス可能で、「口承」神話の現代版として機能しうる。

宇宙神話の未来像

 振り返ってみれば、宇宙神話は星空を見上げるというプリミティブな動作に端を発するものだ。まだ言語を持たぬ乳児も寝かされる位置によっては、暗闇に浮かぶ無数の輝きに目を奪われる。重度の身体障害などにより、居室にて横臥位で過ごす時間の多い者もまた、窓さえ開いていれば夜空を眺めることができる。共通しているのは、微動だにできぬ観察と変わりゆく世界とは、ただひとり生きる命の中で接続されるという真実である。

しかし、生命体は観察するだけの抽象的な視点ではない。食事・排泄・睡眠・運動を通して、消耗し、取り込み、創りあげ、傷ついていく身体を持っている。宇宙においては、どの人も呼吸や食事、排泄といった身体的条件に縛られ、生活の一挙手一投足に振り回される存在とならざるをえない。いわば誰もが「障害者」のように、他者の手を必要とするのだ。だからこそ、地上では「無益」「無駄」と退けられてきたものが、共に生き延びるための平等の条件を考える契機として、物語の中で意味を帯びるのだ。そのように人間社会で切り捨てられてきたものが、「宇宙神話の未来像」においては反転し、物語を構成する重要なファクターとなりうるだろう。

 すでに取り上げた新たな神話としての『Dr. STONE』や『仮面ライダーフォーゼ』は、地上の実社会において孤独を感じている(かもしれない)障害のある子どもたちにとって、「このお話は自分のために作られている」という大胆な勘違いを喚起するだろう。しかしその勘違いを立脚点として、作品を感じて読み解いていくことが「未来」をつくるのである。「宇宙」をモチーフとして作品が作られるとき、あるいは場面が描写されるとき、その無限の広がりは人間関係がはらむ可能性と接続されやすい。筆者自身の思い出を振り返れば、「神話」の延長としてのSFやアニメに限らず、「歴史」の物語にさえこうした今日的な契機が潜んでいたことに気づく。

 漢王朝復興と中華再統一を目指し、度重なる北伐を敢行した諸葛亮は、秋風の吹く五丈原にて天を仰ぐ。彼の星は燃え尽きようとしていた。夜空にかつての仲間たちの顔が浮かび、大業を成し遂げられなかった無念と夢追いかけた若かりし日々を思う。すると、諸葛亮の不調を聞きつけた蜀本国からの使者が訪問し、後継者の推薦を求める。諸葛亮が答えると、その次の後継者をさらに尋ねられる。この問答が四度繰り返されるのである。幼少期の筆者はこの場面に「宇宙」を見た。諸葛亮にとってはかわいそうな状況に違いないのだが、それでも希望がある。諸葛亮の亡き後も、未来はずっと続いていくのである。時代の荒波にのまれながら、人々は切なくも輝きを放つのだ。そこには、「起源」とは反対の方向へ果てなく繰り返される「未来」がある。

 つまり、人々が宇宙を物語にするうえで二つの神話的な想像力があるのかもしれない。第一にはじまりを「閉じる」宇宙観、第二に未来を人間とのつながりにおいて「開く」宇宙観である。そして、おそらく現代のフィクションは後者の宇宙観を重視しているのである。それは歴史のなかで脚色をつけながら人間が人間を語ろうとしてきた伝統と決して無縁ではないし、これからも変わることがあるまい。


[1] カール・ヤスパース『哲学入門』草薙正夫訳、新潮社、1954年、11頁。

[2] アレクサンドル・コイレ『閉じた世界から無限宇宙へ』横山雅彦訳、みすず書房、2頁。

[3] 依田千百子「朝鮮の神話と天空世界——アルタイ系諸民族の世界像との関連性をめぐって」篠田知和基編『天空の世界神話』八坂書房、2009年、201-204頁。

[4] 以上の「神話(学)」に関する概要は、松村一男『神話学入門』講談社、2019年、「原本まえがき」(電子版につき頁数略)を参考にした。

[5] 以上、エリアーデとキャンベルの学説の概要については、松村、前掲書「第一章 神話学説史の試み」を参考にした。なお、リファレンス集のセクションでも両者は改めて詳細に取り上げる。

[6] ミッシェル・セール『青春 ジュール・ヴェルヌ論』豊田彰訳、法政大学出版局、1993年、330頁。